Tang‑Yu Life|台湾・高雄から

庭園が完成した、そのあとで

杉山龍さんと、一つの庭園を未来へつなぐ仕事

UBC新渡戸記念庭園のキュレーター、杉山龍さんの剪定、研究、教育を通して、庭園を長く預かり、次の世代へつなぐ仕事について考えます。

庭園が完成したあとに、本当に難しい仕事が始まります。

樹木は成長を続け、光の入り方も変わります。設計によって整えられた視線や空間の関係も、時間とともに少しずつずれていきます。

杉山龍さんに初めてお会いしたのは、バンクーバーにあるUBCの新渡戸記念庭園でした。杉山さんは一本一本の枝を確かめながら、丁寧に鋏を入れていました。その後も交流が続き、庭園が人の見方や感じ方にどう影響するかを扱った共著論文を送ってくださいました。それを読んで、あの日の剪定の意味が、あらためて見えてきました。

新渡戸記念庭園の池、橋、樹木
新渡戸記念庭園は、今も成長し続ける作品です。その継承は、長年にわたる観察、判断、教育によって支えられています。
本文の流れ
  1. キュレーターが向き合うのは、生きている作品
  2. 森歓之助と杉山龍さんをつなぐもの
  3. 剪定するのは枝、守っているのは空間
  4. 庭園は人にどう働きかけるのか
  5. 設計するときから、何年も先を見る
  6. 一つの庭園を長く支えるということ
  7. 庭園を読み続ける人

キュレーターが向き合うのは、生きている作品

杉山さんは千葉大学園芸学部を卒業し、同大学大学院で環境計画学を修了しました。その後、造園会社で実務経験を積み、カナダへ渡り、2010年から新渡戸記念庭園のキュレーターを務めています。[1][2]

初めて杉山さんの職名が「キュレーター」だと知ったとき、興味をひかれました。この言葉から思い浮かべるのは美術館や博物館で、庭園と結びつけて考えたことは、ほとんどなかったからです。

千葉大学の広報誌のインタビューで、杉山さんは、庭園キュレーターは専門知識を持つ総合責任者だと説明しています。庭園を今後どの方向へ導くのか。どの植物を植え替え、手入れをいつ、どのように行うのか。庭園全体を見渡し、長期的な視点から判断する仕事です。[1]

美術館や博物館のキュレーターが向き合うのは、作品やコレクションです。庭園のキュレーターが向き合うのは、成長し、老い、天候や病害、人の利用によっても変わり続ける作品です。

「キュレーター」という職名は、庭園にもよく合っていると思います。

庭園の維持管理と聞くと、剪定、除草、落ち葉掃き、池の清掃といった日々の手入れを思い浮かべます。英語でいえば、まず maintenance です。杉山さんは、この仕事を foster という言葉で表していました。そこには、育む、成長を支えるという意味があります。[3]

庭園は、完成した日の姿をそのまま固定しておくものではありません。もとの設計を読み取り、植物、気候、時間の変化に応じながら、庭園がこれからも育っていけるように手を入れていく。その意味で、foster は、生きた庭園に向き合う仕事をよく表しています。

森歓之助と杉山龍さんをつなぐもの

この庭園は、日本とカナダの交流に尽くした新渡戸稲造を記念して造られました。[4]

この庭園には、もう一つ興味深いつながりがあります。

新渡戸記念庭園を設計した森歓之助も、千葉大学園芸学部の前身である千葉高等園芸学校で学び、のちに長く教鞭を執った人物でした。杉山さんも、数十年後に千葉大学園芸学部で学んでいます。[4]

森歓之助と杉山さんに直接の師弟関係があったわけではありません。ただ、杉山さんが千葉大学で学んだ教授の一人は、森歓之助の門下でした。造園教育の系譜でいえば、杉山さんはいわば森歓之助の孫弟子にあたります。杉山さん自身も、森を千葉大学の「大先輩」と呼んでいます。[1][2]

森歓之助は1959年にバンクーバーへ渡り、14か月をかけてこの庭園の設計と建設を指揮しました。半世紀後、千葉大学で学んだ杉山さんが、同じ庭園で、植物をどう育て、どの空間を保つかを判断しています。[4]

この師弟のつながりが、太平洋の向こう側で、先人の残した庭園と再び結びついていたのです。

foster は、今も成長する庭園を育む仕事を表す言葉です。けれども、歴史と文化を担うこの庭園について考えると、私には stewardship という言葉が、世代を越えて引き受ける責任をよりよく表しているように思えます。一つの世代が庭園を一時的に預かり、先人の設計を理解し、手入れと判断を重ね、次の世代へ手渡していく責任です。

剪定するのは枝、守っているのは空間

植物は、庭園が完成した日に成長を止めるわけではありません。

樹冠は年々厚くなり、もともと水面へ向けて開かれていた視線を遮ることがあります。枝が外へ伸びれば、園路に入る光や陰影、歩く人が感じる見通しも変わります。

低木が高くなれば、石組が枝葉の中に埋もれていきます。池の縁が見えにくくなれば、水、石、陸地の間にあった関係も曖昧になります。

一本の木が健康に育っていても、庭園全体は少しずつ、設計時の構成を失っていくことがあります。

新渡戸記念庭園があるバンクーバーでは、日本とは雨の降り方も、剪定に適した時期も、植物の成長速度も異なります。そのため杉山さんは、日本でのやり方をそのまま当てはめることはできません。風と光が通り、人が歩くための空間を保ちながら、手を入れたあとも、木々が自然にその姿になったように感じられる状態をつくります。[2]

日本庭園の剪定には、とりわけ高度な判断が求められます。一つの木の形だけを整えればよいのではありません。樹木の高さ、枝の密度と方向、葉の間から見える景色を、庭園全体との関係の中で考えます。

一本の枝を切る前に、庭師は考えます。残せば何を遮り、切れば何が変わるのか。光の入り方や見通し、樹木と石組、水面、建築との釣り合いも、その判断に関わります。今日どの枝を残し、どの枝を落とすかは、数年後の成長にもつながっています。

庭園は人にどう働きかけるのか

杉山さんが後に送ってくださった論文は、庭園が人の見方や感じ方、身体の反応にどう影響するのかを、さらに理解する手がかりになりました。

杉山さんと他の研究者が共同で行ったこの研究では、日本とカナダの大学生が、ランドスケープ・ガーデン、日本庭園、建築的庭園という三種類の庭園を見たときの反応を比較しています。研究者は参加者の眼球運動と心拍変動を測定し、庭園を見たあとの気分や印象も調べました。[5]

その結果、庭園によって、視線の動き方や身体の反応に違いが見られました。日本庭園では視線を止める回数が多くなりました。一方、ランドスケープ・ガーデンでは副交感神経の活動が高く、自然に近いと感じられる傾向が見られました。また、参加者の文化的背景によって、庭園の見方や感じ方にも違いがありました。

この研究の意味は、どの庭園が最も優れているかを決めることではありません。庭園の空間構成が人の視線を導き、身体や感情の反応にも関わる可能性を示しているのです。

庭園と健康の関係は、単に「緑の中にいると気分がよくなる」というだけではないのかもしれません。空間の構成が視線を導き、その動き方や止まり方の違いが、身体や感情の反応にも関わっている可能性があります。

2025年に発表された別の研究では、京都の無鄰菴と、似た視覚的要素を持ちながら、全体の構成や維持管理の面では無鄰菴に及ばないもう一つの庭園が比較されました。無鄰菴では、参加者の視線がより広い範囲を、より速く移動しました。脈拍の低下や気分の改善も、より明確に現れました。研究者は、庭園全体の構成と維持管理の状態が、ともに見る人の反応に関わると考えています。[6]

もとの設計と、その後の手入れを完全に切り離して考えるのは難しいことです。人が見ているのは、その両方が長い年月をかけてつくり上げてきた庭園です。

設計は、樹木、水面、石組、園路、建築の関係をつくります。維持管理は、何年もたったあとに、その関係がまだ見える状態にあるかどうかを左右します。

庭園の手入れは、見た目を整える仕事だと考えがちです。しかし、枝葉の茂り具合や見通しは、眺めたときの気分だけでなく、脈拍の変化といった測定できる身体の反応にも関わっているのかもしれません。

設計するときから、何年も先を見る

重森千靑さんが私たちの庭園を設計したときも、木々の何年も先の姿を繰り返し考えていました。

樹木の成長速度や、年月を経たあとにどのような樹形になるかまで考え、樹種や配置を決めていました。[3]

庭園が完成したとき、多くの木はまだ十分に成長していません。作庭家は、植えたその日の姿だけでなく、五年後、十年後に、その木が建築、石組、園路、光とどのような関係をつくるのかを考えます。

庭園の姿が落ち着き、設計の意図が十分に見えてくるまでに、何年もの時間が必要なこともあります。

設計者は、植物がこれからどう成長するかを先に思い描きます。庭師は、その成長が実際に起きたあと、目の前の状態に応じて判断を重ねます。維持管理は、設計を時間の中で生かし続ける仕事なのだと思います。

一つの庭園を長く支えるということ

六義園を訪れたとき、目の前の庭園が重ねてきた時間は、どんな設計者や所有者の一生よりも、はるかに長いのだと思いました。

六義園は、柳沢吉保が元禄期に築いた、江戸を代表する大名庭園です。平坦な土地に池を掘り、山を築き、七年をかけて造られました。古典の和歌や名所の景を庭園として表した回遊式築山泉水庭園で、小石川後楽園とともに「江戸の二大庭園」と呼ばれ、現在は国の特別名勝に指定されています。[7]

明治初期には一時荒廃しましたが、1878年に岩崎彌太郎が買い取ると、岩崎家による大規模な再整備が始まりました。途絶えていた水を再び池泉に引き、彌太郎の死後も、彌之助と久彌が整備を続けました。山林から数万本の樹木を移植し、各地から庭石を集め、園内には複数の茶屋も建てられました。

1938年に東京市へ寄贈されるまで、岩崎家は約60年にわたり、この庭園を所有し、整備し、守り続けました。[7]

今日の六義園が残っているのは、幾つもの世代が時間、人手、資源を注ぎ続けてきたからです。

六義園の歴史は、どれほど重要な名園であっても、手入れが途絶えれば荒廃することを示しています。庭園が残るのは、優れた設計があるからだけではありません。その後も、それを引き受ける人がいるからです。

私自身、シアトル近郊のベインブリッジ島にあるブローデル・リザーブ(Bloedel Reserve)を訪れたことがあります。

この広大な庭園と森林は、1970年にワシントン大学へ託され、その後、長期的な管理のために設立された非営利組織 Arbor Fund が引き継ぎました。森、芝地、池、庭園の間を歩いていると、このような場所を長く守るには、それを担う組織が必要なのだと実感します。[8]

ブローデル・リザーブでは、植物コレクションの由来、位置、健康状態、その後の変化を継続的に記録し、将来の管理者が長期的な資料に基づいて判断できるようにしています。[8] 来園者の目にはほとんど触れないこうした記録が、庭園の過去を知り、これからの手入れを考える手がかりになるのです。

六義園とブローデル・リザーブは、一般の住宅庭園よりはるかに規模が大きく、そのまま比較できるものではありません。それでも、庭園は自然に保存されるものではない、ということを明確に示しています。長く残すには、専門家と十分な時間、そしてその仕事を支え続ける資源や仕組みが必要です。

庭園を読み続ける人

私たちが庭園を訪れるとき、設計者の名前を覚えることはあっても、その庭園を何十年にもわたって維持している人について考えることは、あまりありません。池の水、樹木、石組、建築を見ることはあっても、枝葉の成長を日々観察し、光の変化を読み、一回の剪定が数年後に何をもたらすかを考えている人の姿は、なかなか見えません。

こうした仕事は、うまく行われているほど目立ちません。

訪れる人は、庭園はもともとこの姿だったのだと思います。一見自然に見える風景の背後に、どれほど多くの観察と判断が積み重ねられているかには、気づかないこともあります。

杉山さんの仕事は、庭園を整えておくことだけではありません。森歓之助がなぜこの庭園をこのように設計したのかを読み取り、日本の技術をバンクーバーの気候に合わせて調整しています。学生たちに庭園の手入れを教え、次に関わる人を育てる。さらに研究を通して、庭園が人の見方や感じ方にどう影響するのかを考える。

森歓之助は庭園を造った際、協力した地元の日系カナダ人の庭師たちに、施工やその後の手入れの技術を伝えました。[4] 杉山さんも、その後のメールで、UBCの学生たちに庭園の手入れや日本庭園の剪定を教えていると知らせてくださいました。[3]

庭園を理解する人が一人しかいないのでは、その先の継承は心もとないものです。技術や判断を伝えることも、次に関わる人が実際の仕事の中で少しずつ学ぶことも必要です。

これは、高度な専門性に加え、長年にわたる忍耐と責任感が求められる仕事です。来園者の目にはほとんど見えませんが、一つの庭園が何十年後もその庭園らしさを保つためには欠かせません。

参考資料と註記

  1. 杉山龍さんの学歴、庭園キュレーターの仕事、2010年の就任、および森歓之助を千葉大学の「大先輩」とする言及は、千葉大学 『Chibadai Press』第43号を参照。 ↩1 ↩2 ↩3
  2. 杉山龍さんの造園教育の系譜、2010年の就任、およびバンクーバーの気候に応じた剪定については、UBC News “Nitobe Memorial Garden: A garden that bridges worlds”を参照。 ↩1 ↩2 ↩3
  3. 初対面の場面、その後のメールでのやり取り、杉山さんがこの仕事を foster と表現したこと、UBCの学生たちに庭園の手入れや日本庭園の剪定を教えていること、重森千靑さんが筆者の庭園を設計した際の考え方は、筆者自身の経験と直接の交流に基づいています。stewardship は、この仕事を捉えるために筆者が用いた言葉です。 ↩1 ↩2 ↩3
  4. 森歓之助が千葉高等園芸学校第三期生で、長く教鞭を執ったこと、および1959年から1960年にかけて新渡戸記念庭園の設計と施工を指揮したことは、千葉大学園芸学部同窓会二葉会 「森歓之助先生と新渡戸稲造記念庭園」を参照。庭園の記念事業としての背景、1959年の来訪、14か月にわたる設計と建設、地元の日系カナダ人の庭師たちの協力、および施工と手入れの技術を伝えたことは、UBC Botanical Garden “History of the Garden”を参照。 ↩1 ↩2 ↩3 ↩4
  5. Mohamed Elsadek, Minkai Sun, Ryo Sugiyama, and Eijiro Fujii, “Cross-cultural comparison of physiological and psychological responses to different garden styles,” Urban Forestry & Urban Greening 38 (2019): 74–83. 日本とカナダの大学生57人を対象に、バンクーバーにある三種類の庭園で行われた研究です。視線を止める回数と、一回ごとの停留時間は区別されています。本文の「視線を止める回数が多く」は前者を指し、一回の停留が長いという意味ではありません。 ↩
  6. Seiko Goto et al., “Eye movement patterns drive stress reduction during Japanese garden viewing,” Frontiers in Neuroscience 19 (2025). 大学生16人を対象に、無鄰菴と京都大学構内の庭園を比較した研究です。著者らは、対象者の少なさや均質性などを研究上の限界として挙げています。 ↩
  7. 六義園の造営、1938年の東京市への寄贈、特別名勝の指定については、東京都公園協会「六義園」を参照。明治初期の荒廃、1878年の岩崎彌太郎による取得、池泉への引水、彌之助と久彌による整備の継続、数万本の樹木の移植と茶屋の建設については、東京都建設局 『東京都における文化財庭園の保存活用計画(六義園)』「Ⅲ 岩崎家時代」、17–18頁を参照。「約60年」は1878年から1938年までの期間によります。 ↩1 ↩2
  8. ブローデル・リザーブの土地移管と Arbor Fund については、University of Washington Libraries / Archives West “Arbor Fund records”を参照。植物コレクションの長期記録については、Bloedel Reserve “The Living Record: How Bloedel Reserve Documents Its Collections”を参照。 ↩1 ↩2