「太平洋の橋」から烏山頭ダムへ――八田與一が遺したもう一つの橋
新渡戸稲造の「太平洋の橋」を手がかりに、金沢から台湾へ渡った八田與一の生涯、烏山頭ダムと嘉南大圳、そして台南と金沢の交流をたどる。
「太平洋の橋」という言葉
新渡戸稲造には、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」という言葉がある。
日本と西洋のあいだに立ち、相互理解を深めようとした新渡戸の志を、端的に表した言葉である。バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学にある新渡戸記念庭園も、いまでは日本とカナダの友好を象徴する場所の一つになっている。1
この言葉について考えているうちに、台湾にも、別のかたちで生まれた橋があると思った。
それは、誰かが最初から「橋」と名づけたものではない。烏山頭ダムと嘉南大圳を起点に、八田與一の死後も、人々の記憶と往来のなかで少しずつ形になってきた橋である。
その起点は、台南の烏山頭にある。
新渡戸稲造の橋は、自ら掲げた志だった。八田與一の橋は、彼が遺した水利事業を後の人々が受け継ぐなかで、少しずつ形になった。
金沢から烏山頭へ
八田與一は1886年、石川県金沢市今町に生まれた。
1910年、東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、24歳で台湾総督府土木部の技手となった。台湾では下水道、港湾、水道、灌漑などの土木事業に携わった。そのなかでも、生涯を代表する仕事となったのが嘉南大圳である。
1917年には嘉南平原の灌漑計画の調査を始め、1920年に工事が始まった。1922年には烏山頭出張所長となり、家族とともに烏山頭へ移り住んだ。烏山頭ダムが完成したのは1930年、八田が44歳のときだった。
八田は24歳で渡台し、1942年に56歳で亡くなるまで、土木技師としての人生の大半を台湾で過ごした。2
烏山頭で覚えていたこと
私は烏山頭ダムを何度も訪れ、八田與一記念園区にも足を運んだ。遊覧船にも乗ったことがある。
それでも、以前の私の記憶に残っていたのは、詳しい歴史より、ただその大きさだった。
私が関わってきた建築や住宅開発は、一つの敷地や街区を単位に考えることが多い。水利事業は、山と川、農地、平原全体を相手にする。同じ建設でも、扱う範囲がまるで違う。
烏山頭ダムは橋ではない。
けれど、ここで水と土地が結ばれた。
水を引き、使い続ける
嘉南大圳(かなんたいしゅう)は、烏山頭ダムだけを指すものではない。
濁水渓の取水施設、南・北・濁の各幹線と支線、排水・防潮施設までを含む、広域の灌漑システムである。1920年に着工し、1930年に完成。嘉南平原の約15万ヘクタールに及ぶ農地を潤し、三年輪作を支えた。3
数字だけを並べれば、歴史資料の一項目で終わる。
けれど、水は自然に田畑へ届くわけではない。集め、貯め、分け、必要な場所へ送り、余分な水を逃がす。嘉南大圳がつくったのは水路だけではなく、広い地域で限られた水を使い続けるための仕組みだった。
嘉南大圳がつくったのは、水路だけではない。広い地域で限られた水を使い続けるための仕組みだった。
1920年代には鉄道も電話も電信もあり、工事には蒸気ショベルをはじめとする大型土木機械も投入されていた。ただ、いまのように、離れた工区の状況をすぐに共有できる時代ではない。人や資材を動かし、指示を伝え、現場の変化に対応するだけでも、現在よりはるかに多くの時間がかかった。3
同じ規模の事業は、現在でも容易ではない。まして、一世紀前の台湾である。
曾文渓の水を烏山頭へ導く烏山嶺トンネルは、この灌漑システムの要所だった。地図の上では一本の線に見える。現場では、地質、地下水、可燃性ガス、発破、換気、資材運搬、安全管理が、一つずつ現実の課題になる。実際、工事中にはガスの噴出や爆発事故も起きた。3
「水を引く」という短い言葉の背後には、長い工期と大きな危険があった。
十年に及ぶ工事を支えるには、人が暮らせる環境も必要だった。烏山頭には、工事関係者とその家族のために、宿舎や学校、病院などが整えられた。八田自身も家族とともにここで生活した。3
烏山頭では、多くの技術者や作業員が、十年にわたって現場をともにした。
工事が完成すると、彼らは八田の姿を銅像として残そうとした。
生前に建てられた銅像
烏山頭の八田與一像が特別なのは、没後の顕彰としてつくられたものではないことだ。
建立を提案したのは、工事に携わった人々が結成した「交友会」だった。十年をともにした八田への敬意と親しみを込め、制作を八田の故郷・金沢の彫刻家、都賀田勇馬に託した。
像は1931年、ダムを望む丘に建てられた。このとき八田は45歳。まだ現役の技師だった。4
生前、それも45歳の現役技師のために、現場をともにした人々が建てた像だった。
しかも、像は地面に腰を下ろし、片膝を立て、考え込むような姿をしている。胸を張る英雄像ではなく、現場で思案する技師の姿である。仕事仲間が知っていた八田を思わせる。
八田は1942年5月8日、「南方開発派遣要員」としてフィリピンへ向かう途中、乗船していた大洋丸がアメリカ潜水艦の攻撃を受け、東シナ海で亡くなった。
その二年後、戦時下の金属供出が進むなか、銅像も烏山頭から姿を消した。4
戦後、像は番子田駅、現在の隆田駅の倉庫で見つかった。水利会は像を買い戻し、八田がかつて暮らした家に保管した。元の場所へ戻ったのは1981年である。4
生前に工事仲間が建てた像は、戦争のなかで失われかけ、後の人々の手で守られた。その来歴自体が、八田がどのように記憶されてきたかを物語っている。
八田の銅像は、死後の顕彰ではない。十年をともにした人々が、45歳の現役技師のために建てた像だった。
故郷・金沢へつながる記憶
八田の記憶は、烏山頭だけにとどまらなかった。
毎年5月8日の命日には、台湾と日本から人々が集まり、墓前祭が行われる。八田の遺族や金沢の関係者も、長年この日に烏山頭を訪れてきた。5
金沢は八田の故郷、台南は彼が嘉南大圳を残した土地である。
二つの都市の往来には、八田という明確な起点がある。
その関係が目に見える形になった一つが、八田與一記念園区の修復だった。
2009年、記念園区の整備にあたり、修復を担当した設計会社は金沢を訪れ、当時の建築様式や工法を調査した。八田邸を含む四棟の木造宿舎には日本の大工技術も取り入れられ、室内には金沢市民から寄贈された古い家具が置かれた。園区は2011年5月8日に開園した。6
かつて人が暮らした建物を、どの工法で直すのか。どの家具を置き、次の世代へどう渡すのか。
金沢へ調査に赴き、日本の大工技術を取り入れ、市民から贈られた家具を八田邸に置く。その修復は、台南と金沢が八田の記憶をともに受け継ぐ仕事でもあった。
工芸と都市交流へ
台南と金沢の往来は、やがて工芸の分野にも広がった。
2021年、台南市美術館では「工芸協奏曲―台湾×金沢工芸交流展」が開かれた。八田與一の台湾への貢献と嘉南大圳着工100年を背景に、金沢卯辰山工芸工房と台湾の工芸家が、金工、陶芸、漆芸、ガラス、染織の作品を通して交流した。7
水利技師が残した縁は、百年後、工芸と美術館の交流へとつながった。
さらに2025年、台南市美術館は、金沢21世紀美術館の元館長であり、直島のアートプロジェクトにも長く関わってきた秋元雄史をキュレーターに迎え、「皮膚と内臓―自己、世界、時間」展を開催した。同館はこの展覧会を、2021年の台湾・金沢工芸交流展や2024年の台南・金沢フォーラムに続く、工芸、デザイン、現代美術をめぐる交流の流れに位置づけている。8
こうした積み重ねの上に、2026年5月7日、台南市と金沢市は「観光文化交流促進に関する合意書」を締結した。
両市の交流は墓前祭から始まり、観光、市議会、民間団体、若い世代へと広がってきた。八田が金沢から台湾へ渡ってから一世紀以上を経て、その故郷と、仕事を残した土地が、正式な交流関係を結んだことになる。5
橋は、後から見えてくる
以前の私にとって、烏山頭ダムは、まず大きなダムだった。
いまは、その規模よりも、ここに積み重なった時間に目が向く。
八田が亡くなった後も、嘉南大圳は使われ続けた。生前に建てられた銅像は、戦争のなかで失われかけながら残された。八田の故郷・金沢と、彼が仕事を残した台南のあいだでは、いまも人々の往来が続いている。
人はいつかいなくなる。
けれど、その人の仕事が使われ続け、それを記憶する人がいれば、そこから新しい関係が生まれることがある。
新渡戸稲造の橋は、自ら言葉にした志だった。
八田與一の橋は、彼が遺した水利事業を受け継ぐ人々のあいだに、長い時間をかけて生まれた。
烏山頭ダムは橋ではない。
それでも百年を経た今、水と土地を結び、八田の仕事を後世へ伝え、台湾と日本の人々が行き来する理由になっている。
橋は、最初から橋としてつくられるとは限らない。
長い時間のあとに振り返って、二つの場所を結んでいたと気づくものもある。
参考資料
- 在カルガリー日本国総領事館は、新渡戸稲造の言葉として「願わくは、われ太平洋の橋とならん」を紹介している。UBC Botanical Garden は、新渡戸記念庭園を新渡戸稲造と日本・カナダの友情を記念する場所として紹介している。
在カルガリー日本国総領事館|新渡戸稲造と「太平洋の橋」;UBC Botanical Garden|Nitobe Memorial Garden - 八田與一の出生、学歴、渡台、嘉南大圳への関与、烏山頭への転居、没年は、金沢ふるさと偉人館の常設展示・年表を参照した。
金沢ふるさと偉人館|八田與一 年表 - 嘉南大圳の工期、施設構成、灌漑面積は台湾経済部水利署の資料を参照した。大型土木機械の導入は国家撮影文化センター、烏山嶺トンネルのガス噴出・爆発事故と工事関係者の生活環境は水利署の関連資料による。
台湾経済部水利署|八田與一、嘉南大圳、烏山頭ダム;国家撮影文化センター|嘉南大圳工事と大型機械;台湾経済部水利署|烏山嶺トンネル;台湾経済部水利署|烏山頭の工事生活と八田與一 - 八田與一像が生前に工事関係者の「交友会」によって建てられたこと、八田の死と戦時下の銅像消失は金沢ふるさと偉人館を参照した。戦後に番子田駅の倉庫で発見され、水利会が買い戻し、1981年に元の場所へ戻った経緯は烏山頭ダム風景区の資料による。
金沢ふるさと偉人館|八田與一 年表;烏山頭ダム風景区|八田與一銅像 - 台南市の日本語資料は、八田與一の墓前祭を起点に、台南と金沢の交流が観光、市議会、民間団体、若い世代へ広がった経緯と、2026年5月7日の「観光文化交流促進に関する合意書」締結を紹介している。
台南市政府|台南市、金沢市と合意書締結 - 交通部観光署の日本語資料は、八田與一記念園区の修復に際し、設計会社が金沢へ赴いて建築様式と工法を調査したこと、日本の建築技術を取り入れたこと、金沢市民から寄贈された古い家具を配置したことを紹介している。
交通部観光署|八田與一記念園区 - 台南市美術館の「工芸協奏曲―台湾×金沢工芸交流展」は、八田與一の台湾への貢献と嘉南大圳着工100年を背景に、金沢卯辰山工芸工房と台湾の工芸家の作品を紹介した。
台南市美術館|工芸協奏曲―台湾×金沢工芸交流展 - 台南市美術館は、秋元雄史をキュレーターに迎えた「皮膚と内臓―自己、世界、時間」展を、台湾・金沢の工芸、デザイン、現代美術交流の流れに位置づけている。
台南市美術館|皮膚と内臓―自己、世界、時間;台南市美術館|秋元雄史キュレーション展