この記事の内容
  1. 物語の中で、なぜ日本庭園を造ろうとしたのか
  2. 小説家はまず、紙の上に庭を造った
  3. 映画は、架空の庭を現実に造らなければならない
  4. 草木を置くだけでは、庭は完成しない
  5. 庭園は桂離宮を、有朋の装いは重森三玲を参考にした
  6. 阿部寛はいかにして庭師になったのか
  7. 記憶のための庭、映画のための庭

物語の中で、なぜ日本庭園を造ろうとしたのか

『夕霧花園』の物語は、主に第二次世界大戦後のマレー半島を舞台としている。

戦前、テオ・ユンリンとユンホンは京都でいくつかの日本庭園を歩いた。そこでユンホンは日本庭園に惹かれ、憧れるようになった。やがて二人は日本軍の収容所に囚われ、生きてそこを出られたのはユンリンだけだった。収容中、二人は実際に目にした風景の記憶を組み合わせ、現実には存在しない庭を頭の中に一緒につくり、日ごとに細部を加えていった。2

戦後、ユンリンはキャメロン高原へ行き、かつて天皇の庭師を務めた中村有朋(ナカムラ・アリトモ)を訪ねた。亡きユンホンを記念する庭を、クアラルンプールに別につくってほしいと頼むためだった。有朋は依頼を受けなかったが、彼女を弟子にし、モンスーンが来るまで作庭を教えることには同意した。ユンリンがいずれ、自らその庭を設計できるようにするためだった。3

夕霧は、有朋が長い年月をかけて造り続け、まだ完成させていない庭だった。ユンリンが初めに求めたのは一枚の設計図だったが、最後に与えられたのは、自ら手を動かす時間だった。物を運び、庭を整え、何度も見つめながら、石と植物、方位と時間がどのように作用し合うのかを学んでいく。

ユンリンが残そうとしたのは、ユンホンを記念する場所だけではない。ユンホンが生前にかなえられなかった願いも、形にしようとしていた。

その願いには、切り離すことのできない矛盾があった。日本軍は姉妹に深い傷を負わせた。一方、日本庭園はユンホンの憧れと、二人が収容所で守り続けた想像を担っていた。ユンリンが形にしようとしたのは、ユンホンに結びついた記憶だった。

この物語で庭がもたらす癒やしとは、痛みが突然消えることではない。行き場のなかった思いを、学び、自ら手を動かし、その後も手入れを続けられるものへ変えていくことだった。

クアラルンプールに造るはずだった記念庭園は、結局実現しなかった。長い年月を経て、ユンリンは荒れ果て、かつての姿を失った夕霧へ戻り、その庭を修復することを決める。自ら働いたことのある庭に、ユンホンと有朋の記憶を残すために。4

小説家はまず、紙の上に庭を造った

夕霧は架空の庭である。だからといって、タン・トゥアンエンは「そこには美しい日本庭園があった」とだけ書くことはできなかった。

有朋を庭師とする着想にも、現実の出発点があった。タン・トゥアンエンはヨハネスブルクの集まりで、かつて日本の天皇のために働き、当時は南アフリカで個人の庭園を手がけていた作庭家と出会った。この出会いから、彼は考え始めた。もしユンリンがこのような人物と出会ったなら、物語はどう展開するだろうか。14

執筆中、彼は数多くの日本庭園の写真を調べ、物語にふさわしい景色を選んだ。池、石組、水車などの要素が次々に物語へ加わるにつれ、頭の中だけでは庭全体を捉えにくくなった。そこでノートを開き、自ら夕霧の配置図を描いた。5

この図を描いたのは、登場人物が夕霧の中をどう移動するのかを確かめるためだった。家から池まで、どのくらい離れているのか。有朋とユンリンが池辺へ着くまで、どれほど時間がかかるのか。途中で二人が交わす会話は、その距離の中に収まるのか。

物語の展開が、逆に庭を変えることもあった。タン・トゥアンエンは当初、縁側の近くに小さな池を一つ置いていた。しかし二つの池があると読者を混乱させ、重要な場面に登場する中心となる池の印象も弱めてしまうと考え、それを取り除いた。

水車を加えるためには、架空の庭の境界を広げ、もう一度調整しなければならなかった。それぞれの場所には異なる感情を呼び起こす役割が与えられ、登場人物が直接言葉にしない思いを、庭が代わりに伝えるようにした。

タン・トゥアンエンは、最終的にその配置図を小説へ収録しなかった。読者一人ひとりに、読むことを通して自分の夕霧を造ってほしいと考えたからである。

これは興味深い。日本庭園はもともと、一つの固定した位置から眺めるだけの絵ではないからだ。

とりわけ池泉回遊式庭園では、園路そのものが庭の一部となる。人は池辺を歩き、木立、橋、飛石、建物の間を通る。隠れていた景色が少しずつ姿を現し、数歩進むたびに、視線の方向、高さ、距離が変わる。景色も歩みに沿って、一場面ずつ開いていく。6

配置図は、登場人物が庭をどう見るのかも決めていた。物語のどの時点でどこへ着き、途中で何を通り、どの場所で立ち止まるのか。

文章の中に一つの庭を造ることも、簡単ではない。石には一つひとつ置かれる場所があり、人物は本当に家から池まで歩けなければならない。足取りに沿って景色が少しずつ開いてこそ、読者は夕霧を、自分も中へ入れる場所として信じることができる。

映画は、架空の庭を現実に造らなければならない

映画になると、問題はまた違ってくる。

小説では、読者一人ひとりが自分の夕霧を心の中に思い描ける。しかし映画は、具体的な一つの形を選ばなければならない。俳優は本当に家から池まで歩き、橋の上に立ち、石や植物の間で作業する。カメラも撮影位置を探し、観客に何を先に見せ、何を後から見せるかを決めなければならない。

トム・リンが監督を引き受けたとき、彼はまだマレーシアを訪れたことがなく、現地の歴史にも詳しくなかった。まず制作側に二つの質問をした。マレーシアに撮影できる日本庭園はあるのか。日本で撮影する予算はあるのか。どちらにも「ない」と答えられた。けれど彼は、この映画だけの庭を造れるのではないかと、かえって期待し始めた。7

準備は、庭の背景にある歴史を知ることから始まった。台湾でマラヤの歴史資料を読み、日本占領期の記録映像を見る。その後はマレーシアで研究者を訪ね、大学教授に脚本を確認してもらい、クアラルンプールに約4か月滞在した。企画を引き受けてから撮影開始まで、1年以上にわたって準備を続けた。小説に登場する『作庭記』も、制作チームは実際に取り寄せて内容を確かめた。8

プロダクションデザイナーのペニー・ツァイ・ペイリン(蔡珮玲)は、小説と脚本を読み終えたあと、タン・トゥアンエン本人にも疑問点を確かめた。チームは、異なる年代の夕霧についてカラープランをつくり、家屋と庭園の模型、室内の配置図も制作した。最初の石が置かれる前に、庭の年代、尺度、家屋との関係は、図面と模型の上で繰り返し検討されていた。8

物語の主な舞台はキャメロン高原だが、現地では近代化が進み、多くの場面をそのまま撮影することが難しくなっていた。有朋の家と夕霧は、最終的にペラ州バタン・パダン郡の町、Temoh(テモ)に建てられた。9

ロケーションを探す中で、美術チームは小川が流れ、その先で湖面へつながる土地を見つけた。その条件を生かし、川が庭を横切る夕霧を一から造ることにした。10

家と庭の間には、もともと高低差があった。室内から外を見ると、低い場所にある庭が視界から消えてしまう。家の中からも庭が見えるように、美術チームは、盛り土によって低地をかさ上げしなければならなかった。

建物の寸法も、阿部寛の体格に合わせて調整された。トム・リンは当初、伝統的な日本家屋に見られる、低く抑えられた空間の尺度を大切にしたいと考えていた。人が中へ入るときに自然と頭を下げ、その動き自体に謙虚さが表れるからだ。しかし撮影では、背の高い俳優が動ける空間も必要になる。完成したセットは、建築が持つ文化的な意味、俳優の身体、撮影上の必要の間で、何度も選択を重ねた結果だった。10

小説家は配置図の上で、有朋とユンリンが家から池まで歩く距離を決めた。撮影現場では、その距離が本当に盛り土を必要とする土地となり、俳優とカメラが歩く道になった。

のちにタン・トゥアンエンは撮影現場を訪れ、自分が書いた庭に対する他者の解釈が、現実の空間として造られているのを見た。それは奇妙な体験だったと語っている。そして映画の具体的な映像が、自分の記憶の中にあった夕霧を逆に変えてしまったとも述べた。11

草木を置くだけでは、庭は完成しない

台湾では、造園工事がときに「花や草のこと」とひとことで片づけられ、建物が完成したあとに加える飾りのように扱われることがある。『夕霧花園』のセットづくりは、一つの庭を造るために、実際にはどれほど多くの仕事が必要かを見せてくれる。

制作チームは、日本家屋と夕霧の建設に約2か月を見込み、両者を合わせると美術予算のおよそ半分を費やした。一方、日本軍の収容所のセットは、もともとの山林の地形を利用し、工法に通じた現地の大工が3日間で建てた。12

整地、水路、土工、家屋、橋、石材、植栽、照明、作業する人々、施工に必要な時間。そのすべてに費用がかかる。川面の灯籠を夜の点々とした光として見せるために、スタッフは一つずつ手作りし、設置して、動かないよう固定しなければならなかった。13

撮影が始まったあとも、庭は変化を続ける。植物、水流、土は、雨量、流速、日照、時間の影響を受ける。自然は映画の撮影日程に合わせてはくれない。

雨季が訪れると庭は水につかり、橋は流され、水に浮いた。川辺に植えた水草も、水が来るたびに流され、何度も手を入れ直さなければならなかった。庭に生気を与えた川は、同時に最も制御の難しい施工条件にもなった。13

壁なら塗り直せる。小道具なら元の位置へ戻せる。けれど、水と土と植物には、それぞれの変化がある。庭は自然の力を借りて景色をつくる一方、その自然がもたらす破壊も引き受けなければならない。

スクリーンに映る庭の背後には、撮影期間を通して、この実物のセットを絶えず整え、維持し続けた時間がある。

水流や雨季への対処だけではない。制作チームはさらに、観客に「これは有朋が造った庭だ」と信じてもらわなければならなかった。

庭園は桂離宮を、有朋の装いは重森三玲を参考にした

映画の中村有朋は架空の日本人庭師である。それでも美術チームは、その人物に現実の視覚的な手がかりを与える必要があった。

ペニー・ツァイ・ペイリンが有朋の外見や装いを考える際、主に参照したのは、近代日本の作庭家・重森三玲だった。重森三玲の庭には、きわめて鮮明な現代性がある。それを夕霧の空間づくりの参考としてそのまま用いれば、映画が求める趣には前衛的すぎる可能性があった。そこで映画の庭園は、桂離宮を主な参考とした。15

桂離宮は中央の池泉を核とし、書院や茶屋がその周囲に点在している。もともと苑路を歩き、あるいは舟に乗って鑑賞するようにつくられ、見る場所が変わるたびに景色も移り変わる。16

ここで、映画とタン・トゥアンエンの配置図がつながる。小説家は、人物が家から池までどう歩くかを決めた。映画の美術チームは、俳優とカメラが庭をどう通り抜けるかを考えた。そして池泉回遊式庭園は、もともと園路によって景色が現れる順序を組み立てる庭である。

人物がどこを歩き、どの角度から庭を見るかは、庭が完成したあとに初めて生じることではない。設計の段階から考えなければならないことなのである。

阿部寛はいかにして庭師になったのか

観客に、中村有朋が庭師であると信じてもらうために、阿部寛が準備したのは、衣装と、道具を扱ういくつかの所作だけではなかった。

脚本を読んでから出演を決めるまで、阿部寛はトム・リンと1年近くやり取りを重ねた。有朋役に備え、書籍やドキュメンタリーで時代背景を調べ、庭師、彫師、茶道の師にも直接教えを受けた。さらに、重森三玲を記録した貴重な映像を見る機会を得て、寺院庭園にも足を運んだ。17

この準備について読んだとき、私は重森三玲の孫である作庭家・重森千靑先生が、台湾・高雄の「景中泱」で石を据える姿を思い出した。私は現場で、先生が一つの石の位置をどう決めるのかを見たことがある。18

石を下ろしたあと、先生は正面に立って一度見るだけではなかった。さまざまな方向から繰り返し眺め、ときには腰を落とし、ときには地面すれすれまで身を伏せて、石の角度、重心、表情を確かめていた。見ていたのは石だけではない。人が異なる方向から近づいたとき、その石が周囲の景色とどのような関係をつくるかを見ていた。

同じ石でも、わずかに回し、傾け、あるいは土に埋める深さを変えるだけで、そこから感じられる力はまったく違うものになり得る。

この動きを見て、私は、阿部寛が準備すべきだったのは道具を持つ姿だけではないのだと分かった。一つの石の前にどれほど長く立ち止まるのか。どの高さから見るのか。なぜ別の方向へ移って見直すのか。そして、いつ「この石はここに据えてよい」と判断するのか。

そうしたごく細かな動きがあって初めて、阿部寛は、ただ庭に立つ俳優ではなく、本当に庭の造り方を知る有朋として見えてくる。

記憶のための庭、映画のための庭

『夕霧花園』は、庭を造る二つの珍しい理由を見せてくれる。

物語の中で、ユンリンが日本庭園を造ろうとしたのは、ユンホンを記憶にとどめ、彼女が果たせなかった願いをかなえるためだった。クアラルンプールに造るはずだった庭は実現しなかった。最後に記憶を受け止めたのは、ユンリンがかつて働き、そこを離れ、長い年月を経て修復するために戻った夕霧だった。

映画の制作では、チームがその夕霧を本当に造った。文字と想像の中にしかなかった場所を、俳優が歩き、働き、立ち止まれる空間にした。

一つの作庭の思いは、ある人の記憶から始まった。もう一つは、一本の映画がその空間を必要としたことから始まった。

作者が手で描いた配置図から、映画が大きな予算を投じて造った庭、そして雨季に橋と水草が流された出来事までをたどると、庭とは、花木と石を美しく並べるだけのものではないことが見えてくる。

庭はまず想像され、配置され、造られなければならない。そして、人の歩みと自然の変化に耐えていかなければならない。