富は、まず距離として現れる
ブローデル・リザーブ(Bloedel Reserve)の現在の面積は140エーカー、約56.7ヘクタールである。
日本でこの広さを思い浮かべるなら、新宿御苑がわかりやすい。環境省によれば、新宿御苑は58.3ヘクタール。つまりブローデル・リザーブは、ほぼ新宿御苑一つ分にあたる。
帰ってからGoogle Mapsで大まかに測ると、敷地の入口から主屋までは約567メートルあった。普通なら「家に入る」とは門から玄関までのことだろう。ここでは、建物が現れるまでに、その家の土地をすでにかなり歩いている。
園内の一周路は約2マイル、3.2キロ。園は見学時間として約2時間を勧めている。その日は時間が足りず、すべてを歩くことができなかった。いま思い返しても、少し心残りがある。
けれど「歩ききれなかった」という事実そのものが、この場所の大きさを物語っている。これは一軒の家を囲む庭ではない。時間をかけて中へ入っていく、一つの森林景観なのである。
邸宅は、池の向こうに控えていた
道は、太平洋岸北西部らしい森の中を進む。高い針葉樹やツガ、シダ、湿った苔が道を包み、建物の見えない場所では、原生林の中を歩いているようにさえ感じられる。
やがて池と芝生、その向こうの邸宅が一つの風景として現れる。けれど主屋は、想像していた宮殿のような大豪邸ではなかった。端正で静かなアメリカの住宅で、大階段も、周囲を圧倒するような構えもない。海側はピュージェット湾に面し、水面と森、湾、遠い山々までが日々の暮らしの背景になっている。
敷地と建物のスケールの落差が、帰ったあとも気になった。財団にメールを書き、主屋の面積を尋ねたほどだった。返事はなかったが、記憶だけを頼りにすれば、4,000平方フィート、約372平方メートルにも満たないのではないかと思っていた。
ところがキトサップ郡の建物資料では、三階建ての住宅は約6,340平方フィート、589平方メートル、約178坪と記録されている。
もちろん、一般的な意味で小さな家ではない。それでも3層に分かれ、56.7ヘクタールの土地と池、高木に囲まれると、外からは豪邸にありがちな威圧感がほとんどない。
数字はそのときの印象を否定しなかった。むしろ、この家が風景の背後へ身を引く術をよく知っていた、と教えてくれた。
客室ではなく、庭まで備えた一棟
主屋が控えめに見えるからといって、この邸宅が質素だったわけではない。
普通の家なら、独立した客室がいくつかあるだけでも十分にゆとりがある。ところがブローデル家の客人は、主屋の一室ではなく、別棟のジャパニーズ・ゲストハウスに泊まった。
建築家ポール・ヘイデン・カークが設計し、1962年に完成した建物で、二つの小さな寝室と簡素なキッチンを備えていた。大きなガラス戸と障子を開けば、一方には久保田藤太郎が手がけた日本式の回遊庭園が見える。もう一方にあったプールは、現在の砂と石の庭へと姿を変えている。
客人に用意されたのは、家の中の一部屋ではない。一棟の建物と、ほとんどその建物だけのためにあるような庭の眺めだった。
この尺度には、やはり驚かされる。
友人の冗談から、「庭を持つ」ということへ
若いころは車が好きで、同じ趣味の友人たちとよく話をした。そのうちの一人がアメリカの裕福な街をいくつか訪れ、帰ってきて半分冗談のように言った。
「車で遊んでいるうちは、まだ本当の金持ちじゃない。船で遊ぶようになって初めてだよ」
友人同士の他愛ない冗談だったが、なぜか長く記憶に残った。
その後、京都の個人庭園を訪ね、東京ではかつての大名庭園である六義園も歩いた。ブローデル・リザーブで、一家が客人のために別棟を建て、その建物に一つの庭まで添えたことを知ると、富を測る目盛りがもう一段先へ動いた。
庭に現れるのは、一度きりの購買力ではない。土地と時間、そして長く手をかけ続ける力である。
車も船も、買うことはできる。けれど庭は、最後には時間に預けなければならない。土地と設計、日々の手入れが必要で、木が育ち、苔が石を覆い、最初の構想が風景へ変わるのを待たなければならない。
車や船が一つのものを所有することだとすれば、庭を持つことは、時間と長い契約を結ぶことに近い。
森で富を築き、森を残した一家
この森の背後にいたのは、ほかでもない。森林産業によって富を築いた家族だった。
プレンティス・ブローデルはイェール大学を卒業し、もともとは教育の仕事を志していた。のちに父の林業会社へ戻り、家業は合併を経てマクミラン・ブローデルとなる。1960年代には、カナダ最大規模の林産企業へ成長していた。
彼個人の純資産がいくらだったのか、信頼できる公開資料からはわからない。しかし56.7ヘクタールの私邸を所有し、何十年にもわたって建築家やランドスケープ・アーキテクトに仕事を依頼し続けた事実だけでも、その富が企業の規模にとどまらず、土地と長期的な景観づくりにまで及んでいたことはわかる。
矛盾は、まさにそこにある。ブローデル家の富は森から生まれ、彼らが最後に残したものも、また森だった。
プレンティスは、引退してから突然、環境保全を思いついたわけではない。会社にいたころから、木くずや製材の副産物を工場の動力に再利用すること、パルプ生産で生じる廃棄物を減らすことを進め、1938年には伐採地へ苗木を植える再造林にも着手している。
もちろん、こうした取り組みだけで林業開発と自然の矛盾が消えるわけではない。だからといって、彼の人生を、富を得たあとの単純な償いや贖罪の物語にする必要もない。
むしろ一生を通じて、同じ問いに向き合っていたように見える。人が森を変える力を持つなら、その力をどう使うべきなのか。
目の前の「自然」も、誰にも触れられなかった原生の風景ではない。この土地には、ブローデル家よりはるか以前からスクアミッシュ族の歴史がある。夫妻が1951年に購入した時点では、森と羊の牧草地、古い伐採道路が混在していた。いま自然に見える部分には、二次林も、人の無数の選択も含まれている。
資金を出しただけではない。暮らしを置いた
プレンティスとヴァージニア・ブローデルは、この土地を購入してから30年以上をここで暮らした。園の記録によれば、プレンティスはほとんど毎日のように敷地を歩き、土地を観察しながら、次に何をすべきかを考えていたという。
プレンティスの人柄をよく表す話がある。
1969年、ランドスケープ・アーキテクトのリチャード・ハーグは、リフレクション・プールの周囲に小さなイチイを植え、高さ10フィート、約3メートルの生垣へ育つのを待つ案を出した。するとブローデルは、自分はそこまで長く生きられないかもしれない、と冗談を言った。ならば、すでに大きく育った木を探そう、と。
二人は本当にオレゴン州で成木のイチイを見つけた。プレンティス自身が苗木園へ選びに行き、1970年には高さ10フィートの木々が池の両側へ移植された。
成木を探し出し、運び、移植するには、通常の庭づくりをはるかに超える資金と労力を要する。けれどこの話が示すのは、財力そのものよりも、プレンティスの景観への執着である。彼は書類の上で予算を承認するだけではなかった。人がリフレクション・プールの空間へ足を踏み入れた瞬間、どれほどの高さの生垣を見るべきかまで、自分で決めようとした。
プレンティスと設計者たちは、現場で何度も試行を重ねた。道は地形に沿うよう勾配をつけ直し、森の中で目立たないようにした。工事で出た土は、ゲストハウス近くの築山に使われた。ハーグが抽象的なガーデン・オブ・プレーンズを提案したとき、プレンティスは迷いながらも、まず原寸大の模型を現場につくり、実際にその空間へ立って判断することを認めた。
1981年、ワシントン大学のランドスケープ・アーキテクチャの学生たちが訪れた。ある学生が、日本庭園の池の流出口にかかる小橋からは、主屋とミッド・ポンドの水面のほぼ全体を同時に見渡せる、と指摘した。
プレンティスは最初、信じなかった。すでに30年近くここで暮らしていた。それでも自分で橋まで歩いて確かめ、最後には学生が正しいと認めた。
50ヘクタールを超える土地を所有していても、自分の庭を見尽くしたことにはならない。それ以上に印象深いのは、何十年も庭をつくり続けたあとでさえ、自分が見落としていた眺めを若い学生から教えられることを受け入れたことだ。
この庭は、プレンティス一人の作品でもない。1970年にはヴァージニアへの贈り物としてクリスマス・ポンドをつくり、園の花の色や暮らしの雰囲気にも、彼女の選択が残っている。
二人が買ったのは土地だった。そこに実際に置いたのは、その後の30年以上の暮らしだった。
「少し西洋的」に見えた日本庭園
もともと日本庭園を見るために来た。それなのに、実際に目にしたときの第一印象は、どこか日本の庭そのものとは違う、というものだった。
京都の寺院にある枯山水とも違う。日本庭園をそのまま北米へ移した複製でもない。ある部分はとても日本的で、別の部分は明らかに太平洋岸北西部の風景に属している。そのときはただ、少し不思議で、特別だと感じただけだった。
あとになって考えると、その違和感こそが、この庭の個性だったのかもしれない。
久保田藤太郎は1956年から日本庭園を手がけた。あらかじめ一式の施工図を完成させるのではなく、現場で土地を見ながら、二人の息子に植物や石を置く位置を指示し、つくる過程のなかで庭を形にしていった。
ジャパニーズ・ゲストハウスも、純粋な和風建築ではない。ポール・ヘイデン・カークは、日本の茶室と太平洋岸北西部の先住民のロングハウス、それぞれの要素を重ねた。だからこの建物は日本を思わせながら、同時に北米北西部の土地にも属している。
現在のサンド・アンド・ストーン・ガーデンも、何度も姿を変えてきた。もとはプールで、その後リチャード・ハーグの抽象作品ガーデン・オブ・プレーンズとなり、1987年に川名孝一が現在の砂と石の庭へつくり替えた。
面白いのは、日本庭園の見方や空間のつくり方が北米へ渡り、異なる森、気候、建築、暮らしと出会ったとき、どのような新しい形を生み出したかということだ。
園の公式サイトは、『ニューヨーク・タイムズ』による「アメリカで最も独創的で野心的な庭園の一つ」という評価を紹介している。『USA Today』も2020年、北米の植物園ベスト10の一つに選んだ。これらの評価が指しているのは、植物の多さだけではない。ブローデル・リザーブが模倣の段階にとどまらなかったことなのだろう。
一家の私邸から、誰もが歩ける庭へ
1970年、プレンティスとヴァージニアは邸宅と土地をワシントン大学へ寄贈し、教育と自然保全に役立てようとした。しかし、これほど広く複雑な邸宅は、維持費も管理の難度も高かった。1974年には夫妻が非営利財団を設立し、その後、庭を支える仕組みが財団へ移っていく。1988年、ブローデル・リザーブは一般に公開された。
土地を買うことが、いちばん難しいわけではない。本当に難しいのは、池を枯らさず、森を荒らさず、道を直し続けること。そして一つの家族の私的な理想を、持ち主が去ったあとも生き続けさせることである。
この場所を離れたあと、真っ先によみがえったのは、砂と石の庭に置かれた一つ一つの石ではなかった。フェリー、長い入口、池の向こうの家、そして時間が足りず歩ききれなかった森だった。
ブローデル家に贅沢がなかったのではない。贅沢の重心を、室内の床面積から窓の外の世界へ移したのである。
邸宅が風景の後ろへ退いたとき、森が暮らしの本当の中心になった。
ヴァージニア・ブローデルが残したこの言葉は、二人が最後に土地を人々へ手渡そうとした理由を、静かに語っているように思える。
“Being present in nature elevates and nurtures the human spirit, heals hearts and minds, and enriches our communities, and our world.”
自然の中に身を置くことは、人の精神を高め、育み、心を癒やし、地域社会と世界をより豊かなものにする。
編集後記|成功の先で、なぜ人は庭へ向かうのか
ここまでブローデル家の歩みをたどってきて、ふと生島あゆみ『一流と日本庭園』を思い出した。同書は、なぜ一流とされる人々が成功を手にした先で日本庭園へたどり着くのかを、15人の人物と庭との関係からたどっている。
ブローデル家もまた、どこか同じ道を歩んだ一家だったように思える。森林産業で富を築きながら、最後に人生の中心へ置いたのは、より大きな邸宅ではなく、森と庭だった。
庭は、成功の最後を飾る装飾とは限らない。時間や自然、自分の生き方との関係を、もう一度結び直す場所にもなり得る。ブローデル夫妻が30年以上をかけてつくり、最後には二人がともに眠ることになった庭は、そのことを静かに伝えている。